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人物

 私が荒木晋太郎さんに出会ったのはあるイベントだった。それはアーチストの作品の評価を投票によって競うというもので、優勝が彼で準優勝が自分だった。おもしろい絵を描くし味のある男だな、と感じた。なにより印象的だったのは、いきなり「友達になってください」と言われたことだった。
 昭和五十三年二月八日、荒木晋太郎は長崎市に生まれた。ごく普通の家庭で愛情を多く注がれた子供だったらしい。妹とご両親の四人家族だ。事態が急転したのは彼が十三歳のときに、母親の病が発病したことだ。ヤケになって学校の成績も落ち、サッカーにも熱が入らなくなった。わけありの友人ばかり増え、田舎を無性に出たかったと言う。だから東京の大学を探し学芸大の美術学科に入った。そして十八歳のときにお母さんが亡くなった。もの静かで芯の強い人だったと言う。その後ひょんなことから京都に衝動的に引っ越して来ることになった。それから仕事を転々としたあと、靴修理の仕事をこなしながら、作品の発表を始めた。
 彼はやはり率直で正直な男だった。私が震災二日後にチャリティーライブをやったときに、彼が思いあまって電話を掛けてきたことがあった。もどかしい熱をどうしていいかわからないようだった。その後原発がひどい惨状を見せたときに、原発反対のデモに参加すると言う。じゃあおれもいこう!と二人で大勢の群集に交じって御堂筋を練り歩いた。このことがあって彼の口からおばあさんが原爆に被爆した話を伺った。お母さんの病が原爆が原因だったこともはじめて知った。
 そして私は彼の心に残る作品を作りたいと思った。


作品 

 親しい上に特徴がある彼の姿を捉えるのは最初はたやすいことだと思えた。私は味があって深さも繊細さもある骨太な作品が彼にふさわしいと考えた。
 しかし製作は大変難しいものだった。本当に苦しんだ。しばらくどうしようもなくなった頃にふと思ったのは、きちんと彼を見てみよう、観察して素直に描けば良いということだった。そして数え切れない悪戦苦闘の末、捉えた。
 荒木くんに作品を見せたときの感激を忘れない。「想像以上です」と彼は言った。「制作費に見合う作品じゃなかったら本当に突っ返すつもりでした」とも言った。制作費は今までより一桁違っていた。「この絵を観てると、自分に自信が持てますよ!なんなんですかねえ。自分の人生をトータルに見せて作品にするなんてはじめての経験です。この企画絶対続けてください!」彼は私の両手を強く握りしめた。私もなにか熱いものがこみ上げて来た。そして私は興奮冷めやらぬ彼と彼の絵とともに朝まで焼酎を酌み交わした。
 作品は額装の外形が690mm×640mm奥行き70mmである。作品は阿波和紙に墨によって描かれた。

2011年7月29日

注:荒木さんのお母さんの病名は正確には多発性骨髄腫という血液がんの一種です。主に原爆被爆者や原発作業員に発生率の高いものです。