奥田拓司



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奥田拓司さんと作品

 

 

spcer人物と作品   奥田拓司写真

 奥田拓司(おくだたくじ)さんは昭和45年4月29日、京都市上京区西陣に生まれた。
 兄弟は姉が一人の二人兄弟だ。父親は同志社大学の土木の講師も務めるなどしたが、あるときから海外青年協力隊を通じ地質調査士としてリビア、エジプト、マレーシア、インドネシアなど世界中の発展途上国を飛び回り始めた。ダムを作ったり高速道路を作るための計画を立案し政府に売却する仕事だ。日本に家族を残し帰国は3年に一度位で母親は幼少の頃に別れ、奥田さんは祖母と祖父に育てられた。お父さんは見た目も性格も奥田さんにそっくりだそうだ。
 
 奥田さんは京都の高校に通い、建築の専門学校に進学した。建築家になりたかったそうだ。その理由は育ててくれた祖父が父の借金のために何度も家を建てることを断念することになって、自分の手で家を建ててあげたかったからだ。それに祖父には恩を返せてないから若い頃に早く成功して恩を返したかった。卒業後は従業員800人くらいの大手建設会社に就職したが理想と現実が違って早期退職した。そのもっと大きい理由は現場で大工さんの姿を目の当たりにしたからだ。現場で出会った一人の大工さんに心酔して弟子入りすることになった。しかし二年で退職することになる。祖父の死が大きかった。その時期をきっかけにインドネシアに旅立つ。インドネシアに居住している父親と一度でいいから暮らしたかったからだ。すでに現地の女性と結婚し2人の子供がいる父の元へ23歳で旅立った。
 しかし一緒に暮らしてみるとまったくウマが合わなかった。父はプール付きの家とお手伝い、コックに運転手、ガーデンやペット専門のお手伝いまでいる豪勢な暮らしを営んでいた。それを見てぜんぶいらんわと思った。父は金で手に入るものは全部手に入ったともいう。ならば日本に残された祖母に恩を返し、困っている人のために生きれないのかと、殴り合いの大ゲンカにもなった。家を飛び出してジャカルタの友達の家に転がり込んだ。そこで和風の庭や家を作ったり家具も作るなどの仕事を始めた。仕事はほかにも12種類くらいやってみたという。寿司屋からスキューバーダイビングのショップまで、現地の人間の三、四倍も稼いでいた。しかし当時は日本のバブルが凄まじい勢いで、日本に戻れなくなる焦りが出始めて二年で帰国する。それが25歳だった。帰国後は貿易会社に入り海外を股にかける職業に就き父を抜きたいとも思ったが、現実は向こうから持って来た雑貨を売ったりするだけのヒッピーのような生活だった。その頃にはインドネシアに向かう前に結婚し半年で帰国した奥さんの世話になっていた。
 
 ある日、ずっと気になっていた友人の建築現場に足を向けた。大工の腕には覚えもあったが海外でさぼっている短期間に、同じ時期に大工職をはじめた友人の仕事ぶりに衝撃をうけ、もう一度一から大工の勉強をやり直そうと決めて、10人くらいの小さな工務店に入った。親方は自分と同じように親と薄縁の方だった。最低でも自分くらいにはしたる、ぜんぶおぼえて早よ出ろ!と言われた。休みは要らんからお願いします!といい、真面目にくらいついた。それから腕を一気に磨いて衝突する。飛び出してもうちの仕事はさせん、食っていけるのかと言われたが、食っていくと言って飛び出した。仕事はないが腕は身につけた。だから何のつてもないまま現場に飛び込んでいくらもらえるかわからないまま仕事を続けた。いつのまにか仕事も安定し一年半が過ぎ、あの親方から声がかかりうちの仕事をやれと言われた。自分なりのやり方でやったが、そこで認めてもらえたと思った。この時点で忙しくなって、29歳で月に100万くらいは稼げるようになった。そして少し稼ぎ過ぎてさまざまな出来事があった。
 
 父に対する思いは愛憎からみあうものだ。それでも男として尊敬出来る成功者だ。父を追って今まで人一倍がんばって来た。そう言う意味でも大きな人だと思う。彼は今でもインドネシアで暮らしている。母は事情があって今は会えないが、優しく綺麗だった思いを今でも忘れない。育ててくれた祖父も祖母も亡くなったが姉も幸福な家庭を持った。そして奥田さんは子どもにも恵まれて家族で幸せな日々を送っている。
 
 個人で仕事を続けて徐々に人を雇うようになって会社を立ち上げた。自分の想いが永遠につながってゆくには会社法人が一番だと思った。いい後継者を育てたいというのが今の思いだ。会社にして9年、それまでにもいい家を建てても理念を理解されずうまく住んでもらえないという思いが強かった。それは会社だけでも生かされないところがある。だから一般社団法人としてボランティアで古民家再生協会を立ち上げた。ユーザーと直接しゃべる機会としても貴重だ。そして協会の代表として語る自分と、会社工務店、大工として語る自分とでは伝え方も違って来た。工務店まで立ち上げ、古民家再生協会の理事長までやったのは家に対する強い想い、今でも祖父の家を造り続けているからだ。家はそんなに難しく考え造るものではなく、直せる家がいちばんいい家だと自負する。メーカー主導の現代建築では自力で直せない。古民家は人がシンプルに生活するという考えの延長にあるし、住む年輪によって変わってゆくものだ。今の家は30年周期だが古民家は100年、200年の単位で生きている。京都にはやはりそういった土台がある。子どもの頃には実際に町家に住んでいた。不便はあるけれど愛着があるし、傷むのも当たり前で育った。家と言うものを大事にしているから古民家への興味につながった。だから古民家という存在が自分の意志を代弁している。家には歴史がある。それを無視したくない。仕事でも古民家や町家を再生することも多い。だから仕事で現場に行くとまず家の歴史を見る。家がどういう考えで造られどういう想いで生活が営まれてきたかを見る。職人が生活の近いところにいたのに今は離れている。昔は一生面倒を見る人がいたはずだ。自分が建てた家は自分が一生面倒を見ると決めている。奥田さんはそう熱く語った。

 千光士と奥田さんが出会ったのはひょんなことがきっかけだった。千光士が4年ほど前に作品のことで九州の漆喰業者とやり取りをしたことがあった。その頃は土や漆喰に作品を描くという試行錯誤を重ねている時期だった。その業者の方の友人で、ある男性の写真が目に焼き付いた。それが奥田さんだった。なんでも古民家を見にゆくツアーがあるというので、すぐに参加することにした。それが2011年ことだった。一目見て親近感を抱いたし、古民家や家に強い愛情を抱いているのがわかった。その後一切会うことはなかったが、ずっと気になっていた。それが今なら頼めると思い立ちこの企画に参加して頂くことになった。なぜか奥田さんも「千光士さんのことは今でもはっきり印象に残っています」と言った。予想以上に話も合い、思った以上の激動の人生を送った方だった。自分の直感は間違っていなかった。それ以上にこの人は家にも人にも全力で愛情が強い人だと感じた。家に対する継続した仕事の姿勢、歴史やつながりを重んじる考えはそのまま人に対する関係や思いに通じている。そのつながりの中に自分の作品も加わるのだと考えた。作品はまず直接のスケッチが彼の非常に優しい部分を引き出す仕上がりになった。しかしそれに引きずられて板の作品は優しく弱かった。思い直しこの方の人生に負けない強さと優しさを描くと決めた。土の割れ方とのバランスを考えてもいたが、こうしようと決めた瞬間の気持ちを優先して一気に描いた。
 作品と奥田さんを一緒に撮影した場所は、彼の原点でもある京都の町家の前だ。たまたま遭遇した家の前で撮っていたが、その家の方が偶然通りかかって奥田さんと作品を見て、「そっくりやないか!」と叫んで皆で大笑いをした。


2015年3月31日