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正岡正光さんと作品

 

 

人物と作品   正岡写真

 山本哲也さんは昭和42年10月4日に高知県野市町で生まれた。私千光士誠とは小学校から中学校にかけての同級生だ。二人兄弟の長男で彼のお父さんは競輪の選手だった。引退後は実兄の経営するガソリンスタンドに夫婦で勤めながら家族四人で細々と暮らしていた。そんな哲也さんもお父さんと同じく競輪の選手を目指したそうだ。高校時代にプロの競輪選手を目指したが挫折した。浪人はしたくなかったので、高校の教師の助言もあって東京の工作機械メーカーの営業職に就いたそうだ。それもバブルの真っ只中で七年半莫大な金額の機械を売り、遊びおおいに充実したそうだ。 
 転機はバブル崩壊だった。潮時で高知に帰ることになる。彼は偶然Uターン政策の冊子を見た。そこで高知で一番大きな会社に入ろうと決めたそうだ。そこで某大手企業に入社した。高知で大規模な某有名ホテルを中心に展開する大手企業だ。それまでなんでも我慢強い体質だったがすぐに辞めたくなったという。外回りの営業を経験しずいぶん鍛えられたという。ある日会社がブライダルに力を入れるということになり担当者に抜擢、まったくノウハウがないままスタートを切った。そこへ経験豊かな人材も集まりいろいろなアイデアが集まって数字が一気に跳ね上がった。しかし同時期仕事の成功とは裏腹に、父親が親戚の連帯保証人になっていた事実が発覚。案の定債務者は失踪して一億何千万まわらないという窮地に立たされた。約三千万の借金は哲也さんが両親と共に毎月払い続けることになった。仕事は順調で月給が増えたがそんな生活が返済に追われ続ける日々が十年は続いた。ジュースも買えないくらいひどい時期があった。事情を知らない同僚達は彼を守銭奴と呼んだ、それでも仕事は順調だったが、激務が重なりあるひいきなり倒れた。うつ病だったそうだ。ブライダルの仕事はものすごい緊張を強いられる。しばらく会社も休んだそうだ、もうサラリーマンには復帰できないと思い、古物商許可書の免許を取得して古物の買い取りを始めることとなる。しかしどうにか体調も回復したので会社に復帰ブライダルの仕事にも復帰した。骨董のお店は哲也さん指導の元お母さんと義弟がやっているそうだ。彼は古物、骨董はこころのよりどころと語った。 
 奥さんとは結婚して18年、お子さんは男の子が一人いる。骨董の世界から茶道の世界も知った。本人も指導するまでになった。今では父の連帯保証の債務も完済して公私ともに充実した日々を送っている。
 
 私が山本さんに再会したのは中学の同窓会だった。いっぱしの営業マンとしてバリバリ働いているであろう彼の姿に関心したものだった。元々は小学生の頃に同じクラスで中学生の時代は同級生だった。そこでもやんちゃだが大人びた子供だったことは今でも憶えている。彼の話を伺ってゆくとすさまじい生き様があった。強い集中力、仕事に対する執念。そして父親の負債まで肩代わりする強い責任感。病気になるまで突っ走るというのは並大抵のことではない。そして人に対して大変敏感な人間だ。自分のことを冷静に見る前に他人との関係で一気に進んでしまう。競輪選手をあきらめて営業の仕事からブライダルの仕事に移った経緯を伺ったときに納得した。自分の私欲に走るより、大勢の人間と仕事を行うことが彼の喜びだ。それが哲也の本当の姿なんだろう。彼は天命に従って突っ走った。運がよかった、人に恵まれた、と語る彼の姿はとても眩しかった。

 作品に彼を定着させるのは実際には大変だった。何度となく試行錯誤を繰り返し、結局土を使って製作することになった。陶土を裏から塗り、さらに表面からも塗った。粘土質の強いプロ用のクレヨンも合わせ、額は杉の木を焼いて作った。そして人間くさい彼にふさわしい作品になった。

2013年5月30日