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人物 安岡

 千光士誠の叔母、安岡美佐さんは安岡慶一朗と傍士秋(ほうじ とき)との間に高知市に生まれた。昭和五年三月十六日のことだ。父慶一朗は建築家で当時の日本領土だった京城(ソウル)に家族で移転したが、美佐さんが一歳と五ヶ月のときに急死した。
  一家は安岡家の実家だった高知県香南市山北に戻る。母秋は傍士家の尋常ではない豪華な暮らしに慣れすぎていて普通の子育てが分からない人だった。傍士家は山内家の家老で維新前までは上士、敷地はそこら辺の町すべてが一族のものだったらしい。そのうえ女優のような美人と言われた人だった。美佐四歳のときに母秋は鉄鋼会社社長土居彦三郎と突然再婚した。千光士誠の母典子はこの彦三郎と秋の長女だ。恋に落ちた秋は美佐さんを置いて声もかけず家を出た。
  彼女は安岡に引き取られることになった。土佐有数の郷士の名家だった安岡家は慶一朗の一粒種を路頭に迷わしたくなかったようだ。しかし傍士家とは違って安岡は質素な暮らしだった。祖父も亡くなって兄弟もいない二人きりの生活。祖母は大変厳しく、辛い生活だったそうだ。それから親戚がなだれ込んで来て追い出されそうになったり、過酷な暮らしだった。
 戦後の農地改革で広大な土地は全部奪われて家は没落した。その後も大変な生活だったらしいが祖母が倒れた。介護は九年も続いたという。美佐さんは高校を出てすぐに保母の資格を得て家のために働いた。

 転機があったのが二十三歳のとき。安岡家の凋落を見かねて親族が養子を世話をしてくれた。夫の元雄さんは山一つなど大きな財産を持って安岡家に入った。その後は本当に幸せな生活だったという。姑は本当に親らしい親だったそうだ。ご主人は県庁の職員で一男一女をもうけた。お孫さんはそれぞれ二人ずつ四人できた。息子さんがテレビ局のおえらいさんというのが美佐さんの自慢だ。美佐さんは今ではフランスや中国に旅にも出るし、株にも精通し八十一歳の現在も安岡家の田畑を耕したりと心身ともに矍鑠として、ご主人がなくなった後も一人で悠々自適な生活を送っている。

 母秋のその後の話がある。結局土居家でもご主人を結核で亡くし高知に戻った秋は共産主義の思想家池上隆朗と恋に落ち未婚のまま子供をもうける。池上には妻も三人の子もあった。そして秋は結婚したが豊かな財産も散在し美貌も貧しさと老いでなくした。結局秋は貧しい本屋の女房として生を終えた。美佐さんは母にひがみもないし恨みもないという。秋の子供全員が「自分は自分で切り開いてゆくという覚悟があった」と語る。そして安岡家を背負った誇りと責任感があった。

注) 安岡家は土佐郷士の名家で、邸宅は国指定の重要文化財にもなっている。幕末の勤王の志士を多く輩出した。作家安岡章太郎もこの一族の系譜である。

 


制作

 幼い頃から親しんでいる叔母の安岡さんを描くのは感慨深いものがあった。安岡のお屋敷は私も小さい頃からよく出入りをしていた。
 安岡さんの私の子供の頃の印象は、厳しい方だという印象があった。これは親戚全員に言えるところだが、やはり過酷な運命を背負った人たちの強さから来ているのだろう。年齢を感じさせない強い女性、現代的でさっそうとした女性として尊敬出来る方だ。今回はじっくりと安岡さんを凝視し皺の一つ一つを見つめながら描いた。それは恐い作業だと感じた。そして安岡さんは母秋に風貌がよく似ていた。厳しさや優しさ、安岡家と自分たちをも含んだ作品なればいいと思って制作に挑んだ。

 制作は親戚を描くという重みと歴史のある一族、家屋との関係性を重要視した。安岡邸はお上という家屋とお下という家屋に分かれており。重要文化財はお下の邸宅で、今回作品を設置していただくのはお上になる。お上は一部に現在の補修の手が入っていて文化財ではないが、床の間などは180年前のままである。作品はその床の間に設置していただくことになった。

  作品は額装の外形が770mm×640mm奥行き20mmである。


                 2011年9月11日