たいへんな体験

2011 5月14 日

なかにし礼の「赤い月」を読んだ。すさまじい。満州に移住したなかにし親子のつかの間の栄光と没落を描いている。ソ連が侵攻してきて国に見捨てられ中国人の反逆から死にもの狂いの脱出。愛憎、裏切り、色と欲、土煙と泥がにおい立つようななかにし家の自伝であり満州伝でもある。精悍な魅力を持つ公安のスパイのような男性と母の情事、母の昔の男との繰り返した情事を知って自分の指を切る父、いろんな人間が捨てられ出会い傷つき愛し、ないまぜになって突き進んでゆく。しかし印象に残るのは経験したものにしかわからない情景の細部だった。

引き上げ列車では外気は熱いのに閉められている。石炭の煙が来るだけではない。男も女も尿意を催すと走っている列車から糞尿をするから窓に飛び散るのだ。妙齢の婦人が両手を軍人に押さえられ泣きながら外に尻を突き出す。しかしそれも次第に当たり前になる。敵襲があった。急いで列車から離れて駆け上がった丘に一面の花が咲いていた恐怖も忘れた驚きと感動。この光景を生涯忘れないだろう。駅に着くと一面の人の死体。なにかあったのだろう。金目のものはあらかたはぎ取られている。一人の人間が死ぬとシラミやナンキン虫がぞろぞろと死体からはい出して来る。

主人公の母のモラルもへちまもない大地のようなエネルギー。こういう体験をしている人間にただ大変でしたねとは言えない。知らぬ間に壮絶な体験が血や肉になる。良いも悪いも、幸も不幸もない。ただ絵画的光景がからだに伝わってくる。