才能

2019 1月7日

古い友人と才能がどうとかいう話になった。

まあ絵の才能の話なんだが、こういうことを続けるのは単に才能があるとかいうことではないといつも反論するがわかってくれない。ある程度の訓練でうまい絵は描ける。文章でもそうだろう。ただそれを続けて作品にして人の目にさらし評価される行為が難しい。羞恥心、執念、現実生活との葛藤などいろいろ障害がふりかかる。だからそこで続けられるのは才能の問題でなくなる。

自分を厳しく問われる。

なぜこんなことをしているのか。いろんなものを犠牲にして、非難されたり、生活を犠牲にして。そしてそれが才能なんてことばと大きくかけ離れてゆく。

なぜだ?

自分を問われる。生きている意味まで。他人は言う。評価されないものは価値がない、お金にならないものには価値がないと。そこまで非難され、家族まで追い詰められ続ける意味はなんだ?自分でもなんだかわからなくなって、追い詰められおかしくなるのもわかる。会社員が会社に文句を言うのはたやすい。これはしかし自分ではじめて責任を負ったものだ。自分を責めるのは限界がある。そんな葛藤の中で、絵の能力や才能がどうとかいうものにどんな意味がある?あるのは当たり前だがいろんなものを犠牲にして、こんな辛い経験の中で続ける意味があるのか?そんな風になってゆく。

やがてそれを通り越すと、人生そのものになってしまい、才能ということばが当てはまらないことに気がつく。

それを貫くには自分の強い意志しかない。いろんなものを背負う責任と意志が一番大事なもので、それは才能とは言わない。