生きたまま

2012 9月22 日

人ってだいたいパターンがあるでしょう。

そういうこと言う人にむかっとした覚えがある。大勢の人と関わったかもしれないが、人間を頭からカテゴリー分けして分類してから接する気がしてしょうがなかった。約二名重症な人間がいて当然疎遠になった。あんた俺のこときちんと見てないだろう。いろんな情報は知っているくせに全く理解していない、なおかつ中途半端な権力を持っていたりするとさらにやっかいだ。それはなんともいえない怒りを憶える。よく熟年夫婦が離婚する背景にもこんなことがあるんだろう。この旦那は自分のことを知ったふりをしてるがなにも知らない、そんな感じだろう。

集団の前に個人がある。集団ばかり描いてたとき、社会の最小の単位であり個人同士の最大の関係でもあるじぶんたち夫婦を描いた。さらに個人そのものに目を向けて「一対一」で作品を描き始めた。その作業の過程で思うのは人は一人一人違うということだ。顔の造形から人生まで。

「戦場のメリークリスマス」を十四歳で初めて観たとき意味はわからないが反戦映画だとはわかった。それは結局こういうことだったのだ。「この戦争映画の中で人々は日本人も敵である人々も自分の人生を丸ごと生きている。人間が丸ごと自分の人生を生きているからこそ、戦争はそれに対立し自然に否定されるものになるのです」

人間が生まれたそのままを全うして生きれば、なにものにも分類されないそれぞれの人生がある。