生きた作品

2010 10月18日

新しい作風をいつも模索しているが今回は大きい。ただそのことによってもたもたと進まないのも事実で割り切りも必要だ。材料の選択を少し変えるということ。土を顔料として使うことになったが支持体にするかどうかでしばらく迷った。しかし変化は30%くらいがいい線で、やはり70%は今までの遺産も継承しないと弱い。この問題にばかり集中し、かんじんの対象であるべき人間まで到達しなかったがやっと掘り下げ始めたといえる。自分はもっと観客とアーチストの関係をダイレクトにしたいと常々思ってきた。なぜなら世界最高の絵画「モナリザ」はそういうやりとりの中で生まれたからだ。今の美術はマーケットによってギャラリーも作家も引きづられ観客不在の状況が続いている。ブラックボックスなのをいいことに詐欺師や悪党が闊歩している。アーチストが能無しに甘んじているし、ステレオタイプのイメージに操作されて搾取されまくりだ。新人のロックンローラーだ。それがかっこいい、純粋だと言いくるめられてるだけで、実際には考える必要だらけだ。まあ数字に引きずられて内容がおろそかなのはほかのジャンルでも同じ傾向が続いているが、アートはひどい。もっといろいろな選択肢と様式があってしかるべきなのに、この世界が一番不自由に思える。幸い勇気ある同志を得て観客とアーチストによる運動のきっかけをもらった。それはささやかなものだが継続することで力になるだろう。そして長い絵画、美術の歴史で今だけがおかしな状況だと確信して、作品作りに望みたい。余計なものをなるべく介在させないこと。まあそんな大げさに思わなくても普通に生きた作品を作らないと絵描きの意味ないね。そうでなくても創造性というやつは今瀕死の状態だ。