自分の見方

2009 1月5日

で人を扱い始めたのは大竹やピータビヤードの影響だが、そのあとの

で扱った理由は、なんだったんだろう。エロスを現すには人間が必要になる。肉体や感情が必要になる。そんな理屈だったかもしれない。

今こうやって改めて見直してみると、20代の青年千光士は自分の頭に世界があると見ている。世界は情報で映像だ。これは今の青年の大半が思う意識と変わらない。現実をなにもかも知っているつもりでまるでわかっちゃいない。自分と世界との隔たり。それが今では頭が無駄で邪魔なものだと感じている。対象に接近し、自分すら対象になり、世界は物質であり肉体だと感じている。距離をなるべくなくしたいとさえ考えている。時代や年齢に逆行するかのように。作品という記録が自分のものの見方を露に刻んでいる。

昔は良かったというのは老人の常だが、現実は違う。対象となるものがないのでよく思えるだけだろう。なにかの記録が自分の愚かさや幼さ、思考、なにもかもを残していたらそんなのんきなことは思えない。それによって今の自分すら見えるのだから。

時代や年齢に逆行は言い過ぎかもしれない。たぶん時代や年齢に反応しているんだろう。そしてそれは多分今も、この先も。