自分はからだ

2011 7月11日

もうそろそろアトリエも衣替えだ。苦しんだミッションがもうすぐ終わる。

今回も困ったのは材料との相性。しょせん紙と筆と絵具が描くわけで、人間はその手伝いをしてあげれば良いだけだとも言える。結局描き手と道具材料の現実的なぶつかりあい次第だ。向き不向き関係なくみんな油絵描こうとするからおかしくなる。乾燥速度、絵具の粘度、紙やキャンバスの質次第。こいつらが生き生きとするように人が手助けをすると材料が勝手に描いてゆく。この相性がマズいといつまでもうまくいかない。だから絵を描くのは材料の調整役に過ぎないかもしれないな。まあそれが続いていたけど、なんとか落ち着きそう。そして対象をよく観ること。絵に合わすのは簡単で、誰描いても同じならあだち充の漫画みたいになる。まあ絵描きでもこれ多いけど。むろん俺には意味はない。いまは外部にしか興味がない。というか自分ってのはただの現象で実態はただの肉体だと思うに至った。内面は外の記憶。肉体にこびりついた断片。これがからだの声と混ざり合って自分と呼ぶようだ。今じぶんを主張して実はじぶんがないのは外部との摩擦が少なすぎているせいだろう。犯罪、独りよがりの恋愛、芸術家もどきの方々、そしてまさに普通の人の中にそれはある。結局じぶんなんてのはこころや頭にはない。ただのからだと外の関係のことだ。絵や歌はまさに肉体的行為なんでからだが生き生きとするように動けばいいだけか。まあこれが一番難しい。この世の煩悩が邪魔をするわけだ。古代の昔から皆この問題にかかわってきた。そのくらい無や空は至難の業だ。テクノロジー革命が解決するかと言えばそうでもない。ネットはまさに煩悩だらけのオンパレード。煩悩パンドラ全開。結局元に戻りました、みたいなオチだ。確かにすーさんの言った通りそれはめったに降ってこないですねえ。真理だ。(笑)