飴屋法水

2007 12月8日

なにか頭のすみにかさぶたが出来た気がした。それがどんどん大きくなるようで気になって仕方がない。飴屋法水の作品を写真で目撃したときはそんなショックだった。それともう一つ。中山ダイスケのことだ。あれだけ鋭い作品を作っていた彼が、ただ平面に変えたとか言う理由だけであんなに牙をなくせるものなのか?あの鋭さは飴屋のものだったのか?その答えが知りたかった。それはになにか、自分たちの青年期への決着をつける、そんな思いもあった。そして実際に作品を見た。

六本木クロッシング展。多種多様なジャンルから集められた展覧会。その他大勢の作家の作品の中で、彼の作品はぽつんと会場の隙間にごろんと転がっていた。ピカピカの現代的な作品の群れの中で、木の乱暴さ、錆びた鉄球の重い静けさ、男根のようで武器のような巨大なマッチ棒らしきオブジェ、そして薄汚れた畳が頭にこびりついてはなれない。図録を観た。そして一枚の彼のスナップショット。現在住んでいる(?)山の小屋からこちらを見据えたその姿。精子を使った展示や血液交換の個展などは知っていたが、表面的な部分がショッキングで見る気がしなかった。今回は作品だけに集中できた。

表現者とは彼のような人のためにある言葉だ。本物だ。