それぞれの関係

2007 11月18日

高野山でも狩野派の絵画が溢れていた。ふむ。

それにしても当時の都との関係が地理的にも面白い。高野山に対する比叡山だが、比叡山は信長の桃山城と琵琶湖を挟む形で対峙しつつ、後方の京都も見下ろす位置にいる。当時は僧侶と言っても兵僧という部分が強いのでこの関係は緊張感がかなりある。しかもその頃の都は奈良。興福寺が強い武力を含んだ力を抱えている。ここから南北に別れたという見方もできるし、そうなると高野山の途絶した場というのはただの修験場というより、軍事的な防御という意味も帯びる。そして海側の熊野の霊場にかけて、伊勢神宮までの流れも大変興味深い。そのまま尾張名古屋に向かえば、また都市の緊張感がある。この関係。

また当時は寺というものが権力も武力もあったので、寺の構造自体、城のような高い防御性と攻撃性がある。京都や大阪に寺が多いのもまた違った角度で見れる。

仏像が単体で美術館に飾られるのには不満がある。当時の人はそれを単体のアートとして捉えていないし、作った側もそういう見せ方を考えて作っていない。アートが独立してみられるようになったのは近代からだ。だから東寺のような見せ方が理想的だし、アートも全体の中の一つの構成要素ということがわかっておもしろい。これはさっき書いた寺や都市の関係性と同じ。単体で存在するものなんてこの世に一つもない。