笑うしかない

2010 1月6日

一方の千光士家は不明なところが多い。知ってる連中はほとんど死んでしまい、親戚とは断絶しているので自力で調べるしかない。わかってること。ひじいさんも、じいさんも厳格な軍人だったらしい。大尉か大佐らしい。まあ家も悪くないからお見合いで母と一緒になった。千光士盛作と小萩(こはぎ)に生まれた三人の子供の長男が孝だ。おやじは共産主義者だった。厳格な軍人の息子が共産主義者で共産主義者の家の娘と結婚か。これもまたややこしい。親父の思想なんてのはいいかげんなもんで、やはり当事それがキテたからだけだろう。お祭りおとこでにぎやかのが好きだったからなあ。まあ校長まで務めたから社会的にはよくやったのかもしれない。

それはそうと、ひじいさんの傍士一郎?さんは相当変わった男だ。明治の男だ。農業高校の第一期生。働かず絵の勉強をしていた。おいおい、どっかで聞いたな、これは。墨絵の勉強をしに中国に渡りたいといったが一喝され断念。結婚して子供も五人もいたが、元家老の家なので莫大な土地があったのをいいことに、切り売りして日本中を旅していた。江戸は移動に制限があったから外国に行くような気分だったろう。妻は早死にした。その後高知に戻って栗の品種改良に着手。天津甘栗のようなもんだったらしいが、金が底をついて権利を売った。(傍士栗といわれ原本は安岡家にある)高知で一番最初に洋服を東京から取り寄せたり、トマトの栽培に高知で一番最初に成功したらしいが、気持ち悪がられてまったく売れなかった。ははは。ブルーのカーネーションを改良して作ったがこれも不気味がられて一切売れず、すってんてんになって死亡したとのことだ。百年生まれるのが早すぎたろうこのひとは!

母は「誠はやっぱり傍士のじいさんの血を引いてるわ、と言われたき」と半ばあきれ気味に俺に言う。

あははは! もう笑うしかない。