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画家。人を描くことを主体に活動している。インスタレーションなどのダイナミックな展示から小品まで幅広い展示方法が特徴。主にシンプルな素材で力強い作風で描き上げる。近年では様々な手法で新しい表現に挑戦を行なっている。
人と対峙して描く「1×1プロジェクト」を中心に活動。ギャラリー21+葉 ギャラリイK ギャラリー16 gallery wks.など多数で個展。神戸などを中心にライブペイント活動も行う。
2010 1月6日
一方の千光士家は不明なところが多い。知ってる連中はほとんど死んでしまい、親戚とは断絶しているので自力で調べるしかない。わかってること。ひじいさんも、じいさんも厳格な軍人だったらしい。大尉か大佐らしい。まあ家も悪くないからお見合いで母と一緒になった。千光士盛作と小萩(こはぎ)に生まれた三人の子供の長男が孝だ。おやじは共産主義者だった。厳格な軍人の息子が共産主義者で共産主義者の家の娘と結婚か。これもまたややこしい。親父の思想なんてのはいいかげんなもんで、やはり当事それがキテたからだけだろう。お祭りおとこでにぎやかのが好きだったからなあ。まあ校長まで務めたから社会的にはよくやったのかもしれない。
それはそうと、ひじいさんの傍士一郎?さんは相当変わった男だ。明治の男だ。農業高校の第一期生。働かず絵の勉強をしていた。おいおい、どっかで聞いたな、これは。墨絵の勉強をしに中国に渡りたいといったが一喝され断念。結婚して子供も五人もいたが、元家老の家なので莫大な土地があったのをいいことに、切り売りして日本中を旅していた。江戸は移動に制限があったから外国に行くような気分だったろう。妻は早死にした。その後高知に戻って栗の品種改良に着手。天津甘栗のようなもんだったらしいが、金が底をついて権利を売った。(傍士栗といわれ原本は安岡家にある)高知で一番最初に洋服を東京から取り寄せたり、トマトの栽培に高知で一番最初に成功したらしいが、気持ち悪がられてまったく売れなかった。ははは。ブルーのカーネーションを改良して作ったがこれも不気味がられて一切売れず、すってんてんになって死亡したとのことだ。百年生まれるのが早すぎたろうこのひとは!
母は「誠はやっぱり傍士のじいさんの血を引いてるわ、と言われたき」と半ばあきれ気味に俺に言う。
あははは! もう笑うしかない。
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