麗子像

2010 7月10日

岸田劉生の麗子像を観にいった。

あのグロテスクで生々しい麗子像には前から気になっていた。展示は戦後洋画の総括のようでもあった。明治で近代化を急いだ日本は文化でもとにかく西洋の模倣に走ったが、 絵画は生身の肉体や風景を相手にするので完全な模倣にはならなかった。そこが奇妙でありおもしろいところでもある。なかでも突出して印象に残ったのが藤田嗣治。佐伯祐三も印象に残った。おもしろいのは小磯良平。完全に割り切った西洋アカデミズムの模倣のふっきれさかげんが気持ちいい。ぐずぐず悩んでないところがいい。問題の麗子像は西洋東洋関係ない妙な存在感と不気味さ、生臭さがある不思議な作品だった。

こうしてみるとこの世界も頭の理想とからだの現実で悩んでいるのがよくわかる。まるでサッカーだ。近代洋画と日本画も悩みの歴史ともいえる。現代美術はそこんとこすっとばした思いつきで出来るよさはあるが、肉体がついていってない稚拙さがある。まあ思いつきじゃ長くは続かないわな。

そう思うのはこの兵庫県立美術館である。この美術館自体が作品で展示スペースが少ない少ない。安藤の作品は良くも悪くもそういうふざけたことをする。これも作ったもん勝ちみたいなところがある。建築ってのはやはり土地に根ざしたものだから強い。絵画も場所に根ざさないとだめなんじゃないか?そうなれば結びつきも強く愛着もでる。安易にマーケットに支配されて株券みたいになってるのは、画家自身にも責任がある。あほみたいな子供だましの絵が売れてますっていっても、愛なんてわかんわな、あれじゃ。

麗子像には愛があったよ。うん。