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人物と作品IKEGAMI R

 池上隆一さんは昭和4年2月24日に安芸郡東洋町野根で生まれた。育ったのは高知市で、実家は書店を営んでいた。父親の池上隆郎(たかろう)は共産主義思想の信奉者で、その書店は四国でも唯一の社会主義革命の思想書を販売していたところだった。当時は危険思想とされていた共産主義を信奉する仲間や学生が数多く出入りをしていた。この頃の話は私も母にずいぶん聞かされた。豪快な男どもが激論に明け暮れていたそうだ。隆郎は千光士誠の祖母、土居秋(とき)と再婚し、二人の間に子供も生まれた。土居秋の連れた子供二人、池上の前妻の子供三人、三家族が合流する形になり、その家の長男として育った。以前描かしていただいた安岡美佐さんは、秋の最初の結婚先安岡家との娘にあたる。私千光士誠の母は秋の二人目の土居家のご主人との娘だ。夫は二人とも結核で死別している。
 隆一さんは16歳のときに海軍兵学校に入学した。幹部将校を養成する学校で、現在の防衛大学にあたる学校だ。当時の軍国主義の風潮の中で、辞退する選択肢はあり得なかった。しかし兵学校はエリートが行く学校といわれていたので、憧れもあり潜水艦に興味があったのも事実だった。そしてどうせ死ぬなら中国のどこかで一人死ぬより、船で皆と諸共死ぬ方がいいだろうと考えたからだそうだ。それはおじさんが歩哨で、さびしい僻地で一人だけで戦死したことがあったからだ。  
 しかしほんとうは戦争になど行きたくはなかった。本心は造船関係の仕事に就きたかったからだ。そんな気持ちのなか入隊して半年近くで終戦になった。死ぬ覚悟で父の再婚相手の長男に、実家を託して出征した。実の母は結核療養所で爆撃によって死去していて、もう未練などなかったのだ。その緊張が一気に抜け、本当に心の底からほっとして放心した。
 高知に戻って来てからは学校も閉校されていて、町には復員兵がごろごろしている時代だった。死ぬつもりだったので、この先どうしたらいいか途方に暮れた。そしてしばらくして役場の臨時職員として雇われ二年半務めた。22歳のとき同僚の女性から教師の口を紹介されて、代用教員として教師として再出発することにした。その女性とはその後結婚した。学校では社会科を教えることになった。自分の学級はまとめられて生徒自体が主体性を持ってやってくれた。教師はやりがいがある仕事だったという。社会の変化もあり波乱も多かった40年間、中学の教頭としてまっとうした。
 社会主義改革に目覚めたのは30歳を過ぎてからだった。父親の影響ももちろんある。戦時中に発禁本だった書物を家で密かに読んでいたのだ。教師を始めて社会の現状を知り軍国主義思想の中で育った青年が、新しい思想、民主主義、自由主義、社会主義などの意識の改革を迫る激動の時代に入ったのだ。そして高知はレッドパージ(注1)も許さない反権力の土壌があった。教員時代も上のものとずいぶんやりあって、教員としての厳しい処分もあったらしい。しかし教師という仕事は、国家に雇用された矛盾がある立場だと思う自覚はあった。父親が社会主義革命に没頭したのは、基本的に戦争反対の思いが強くあったからだ。そして父親世代の共産党員は、そのまま死に繋がる弾圧があり党員になること自体勇気のいることだったという。教師になってからは、ものの考えもずいぶん変わったそうだ。人はそれぞれの条件とどう向きあって生きてゆくか。社会もどんどん変わるから、今も勉強を続けないといけない。池上さんは静かにそう語った。
(注1) レッドパージ(red purge)は、連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」と判断された人びとが次々に退職させられた動きを指す。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた。 (wikipediaより)

 千光士はものごころついてから、母方の親戚として池上さんと関わってきた。池上隆郎さんが死んだ後は、隆一さんが一族の長として長く影響力を与えてきた。昔は皿鉢料理の前で多くの親戚を集めて和装で豪快に日本酒を飲み、大きな体躯で迫力のある声で吠える池上さんの姿に正直圧倒されていた。高知の昔の男とはこういうものだろうと思ってきた。まともに話が出来るまで時間がかかったが、あるときを境に変わった。それは私が自分の父親のトラブルで苦悩しているときだった。その解決にもずいぶん手助けしてもらったが、あるときぽつりと自分も辛いことがあったと語ってくれた。私は母や安岡さんから、祖父隆郎と祖母秋のことで皆が大変な思いで生きてきたとずいぶん聞かされてきた。しかし隆一さんが何かを自分に語ったことはそのときだけだった。
 池上さんが生きているうちになにかを残したいと思った。作品は長く深い人生を送った重厚さと、千光士誠の現代的な部分を合わせたものになった。

2013年2月10日