紙の話あれこれ

2009 12月14日

アーチストが直接観客と呼吸する、それが重要なことだと常々思ってきたが、年配のお客さんや若い人、最近では幼い子供とも接する機会が出来そうでうれしい。

一番やっかいなのが、評論家や学芸員、マーケットをおかしくする投機的なコレクターやギャラリストなので、俺は連中はほとんどボンクラどもと思っているので、方耳半分でしか話を聞いていない。むしろ正気な社会生活者、現実生活に根ざした人々、もちろん自分もそうだが、そういう人と当たり前の話をすることが大事だ。政治と同じ。専門家にまかせると汚職や独裁に走る。透明であることが批評になる。美術も実は透明なんだがな。見たままだから。数字が大きな嘘なだけで。

ま、ごたくはいいか。

画家は紙に描かないと絵にならない。紙と筆。自分の場合はこれが基本である。粘度。これが大きい。筆につける絵の具のことだが、油やアクリルは厚みや粘度が強い。重ねてしまうし、それによって出来る結果を志向している。早がきのゴッホのような手法は絵の具を混ぜずに色ごとに筆を用意しないといけない。結構準備や設計がいる。一筆書きのような作品には濃度の高い水彩絵の具が向いている。自分は墨をよく使う。そこにも少しの粘度があったりする。空気にさらしていると水分を蒸発させて粘度が上がる。自分はある程度飛んだほうがやりやすい。それを膠でコントロールできないかと試行錯誤している。墨には赤系と青系に色が分かれている。鉄分の問題らしいが意外にこれもおもしろいので試行錯誤して実験をしている。ほかにメタリック墨汁もある。紙は洋水彩紙がクールで好みだ。和紙は合いすぎて和風に向きすぎる。アジアのほかの国の紙なんかがおもしろい。原料が違う。自分で紙をすいてみたい。実は父方の祖父は軍人を辞めた後、井口村で紙すきの仕事をやっていた。今はもう道具もないけれど。山を一部所有していて紙の原料の杉を植えていたようだ。子供の頃にその山によく父と登った。

親父が死んでずいぶん足が遠のいた。