理由

2009 6月3日

今回なんで素直に受けたか考えたんだけど、テーマがシンプルで強いということと、偏った意味を付着してないということがあげられる。それからなんと言っても外部からの要素が今までで最も多かった、ということがある。

アイデアからそう。忠田さんの労働者を描くということからの影響があるし、神戸の人たちを描くということもそう。一人減ったからちょっとハデにいきたいから金でも使うか!なんていう発想もそう。展示も片山さんとのアイデアの掛け合いで生まれた。お金を複数の他人から集めるということもそうだし。外側との関係でガソリンに火がついている。神戸の街の駅前で何度も取材した。信号変わって焦って走ってるとこを撮ってね。そんなどこにでもいる人たちの顔や姿を描いた。何百人の顔を見たかな。今でも顔を覚えてしまってタリーズとかで「ああ、あの人描いたなあ!」なんてこともあった。そういうひとつひとつの集積が厚みになった。

若い頃映画なんか作りたかったけどうまくいかなかった。自分のイメージ通りに現実が動かないからだ。イージーに映像のみに逃げると実験映画になるし、極めるとアニメになる。宇多田の元旦那の映画みたいにCGになる。実は映像が凄くなればなるほど映画の力から遠くなる。結局映画の力とは多くの偶然や人間の力のことなんだ。それは映画だけのことではない。今は絵画も個人の頭の中にどんどん閉じてゆく。絵画の本当の力もそこじゃない。偶然や人の力の集積なんだろう。遠い回り道をして今はそんな風に思うなあ。