コリーダ

2008 11月5日

仏像のポーズや古典絵画のポーズもわかりやすいものがある。いろいろ気になって見ている。予備校の頃からデッサン、ヌードクロッキーなどを描いて来たが、絵とモデルの関係などは遠いもんで、ただの素材でしかなかった。今回は自分とその妻なので気持ちが入る。気持ちが入るというのを拒否していたところもあるので、そう言った意味で大きな転換だ。心や感情を作品に込めるというのは実は危険なところだ。文学的な読み方で解釈するので絵をみない可能性がある。もしくはそう言う目で絵を読む危険性がある。しかし今回はそれをあえてやることが大きなことだと思っている。

大島渚が「愛のコリーダ」で世界中にセンセーションを起こせたのはなぜだろう。ただ本番行為を一般劇映画でやっただけなら、ほかにも数多くの作品はこの世にある。ひと組の男女の性と痴情を描くだけなら衝撃はない。やはりそれは正直なありのままの男と女の姿、人間として一番重要な何かを露にしたからだ。ボカシが入って本来の姿でなくなった映画。その後の警察の摘発。そんなものに対して、ありのままの姿を描写してなにが悪い?ただの人間が国や社会や時代というものに翻弄されず、正直にありのままの姿で生きてゆく生きざまを描いて何が悪いんだ?あの作品とその行為はそう言っているように思う。そんなことを考えながら制作をしている。