成長

2010 10月31日

よくあるのが、実力もなく会社をただ辞める、というパターンだ。合ってない、という判断だ。しかし同じ会社でじっくりやった十年と、転職を繰り返した十年じゃ仕事に対する深さが違う。ある程度やらないとそれはわからない。これは結婚にもそのままあてはまる。合った人を探す、という考え。わけのわからない理想を追うより目の前の人を大事にしよう、とは思わない。生まれつき自分は決まったものだと思っている。運命とかいうやつだ。そんなもんはない。人間なんて仕事をしているうちに変わるし、誰かとつきあっているうちに変わる。それを成長や成熟という。そういう頭がないのは、教育の結果だろうな。人間をパソコンみたいにみている。新しくて優秀なほうがいいだろ、と。自分を優れた機械だと過信している。あの課長や社長より優れてるから私が取って代わったほうがいいはずだ、と。会社で必要とされている、というより世の中で必要とされているのは、生まれ持った能力や才能より、実績だったりする。能力はたいしたことなくても方向性だけあってればいい。それが世の中ってやつだ。

話はそれたけど、清志郎もよくあったのが、アーチストとマネージャーが結託して、新事務所を設立してマネージャーが新社長になるパターン。すると現場で新しいマネージャーがアーチストをそそのかしてまた新事務所を作ってを繰り返す。気のいいマネージャーが社長になった途端にろくでもなくなるのは、立場が人間を作ってる証拠。かといって一生平で責任もなく権利だけ主張するのも子供の言い分といえる。それを純粋とは言えない。これって会社に対する言い分とも言えるし社会に対する言い分にもすりかえれる。しかし子供だろうが大人だろうが、覚悟と責任のない人間の言葉は響かない。

ひとつのことをやり続ける中で、成長や成熟がある。リストラや左遷で厳しい客観評価を受けることもある。いいことや悪いこともある中で成長がある。蕎麦屋で独立して、ああ社長ってのはこういうことだったんだな!くそ、と残酷な現実を知ることもあるだろう。でもとにもかくにも知った事は大きい。失敗して苦労を背負ったとしても。

経験して知ってゆく。他人や自分を理解する。それが世の中を理解する。ただやみくもに石を投げていた頃とは違ってる。

しかし石を投げた頃も、大人になった姿のどちらも間違ってはいない。