描く

2012 8月5日

人の顔に人体の全体が集約されている。

毛深さや骨格、そして仕草。首を曲げた風が適切だったりまっすぐがちょうど良かったりだ。それから存在感。ここが重要だ。形態に従うとただの説明になる。それなら写真が優れている。絵画言語として成立しないと、似顔絵や単なる記録で終わる。このポイントが一番難しい。明確な基準がない。ただこれは説明してるだけだな、というのははっきりとわかる。小磯良平だろうがなんだろうが、説明に過ぎない。ダビンチは違うし、源頼朝像は違う。もとより絵画という意識でやっていない。彼らは画家と言う意識じゃないんですよ。だからいいものが出来る。他人を描いてるからいいものが出来る。個性を表現しようとしないから個性的ないいものが出来る。

集中したらいいかと言えば存外そうでもない。何気なくやった場合がいいことが多い。意識が作品になったりするとてきめんガチガチになる。

無心になるしかない。その人や筆に同化して意識を捨てる。自意識が入ったり出たりする。一瞬自分が消えていいものが出来る。次の瞬間にいいものが出来たと、自分がでてくるがそうでないことが多い。思い込みだったなと思う。

ある時期から本番用の紙を使う。高価な紙がボンボンダメになる。映画のフィルムのようなもんか。役者にダメだしするように自分にそうする。ある程度ダメだと、最初からアプローチをやり直す。