木炭から

2010 4月1日

デザイン科だったから鉛筆デッサンが中心だったけど、ひさしぶりに木炭を使って今になってぴたっとくる事に気づいた。感情を一気に表現しやすい。筆の感覚に近い。バキバキ、ボキボキ折りまくって叩きつける。だいたい2メートル近い画面じゃないと描いた気がしない。すぐに10メートルのロールがなくなる。でかい作品ばっかやってきたからなあ~。ふう。木炭でバキバキ表現するとデジタルの操作とかイライラしてくる。ちっちゃいしなあ、最近の機械は。人間の発想もちっちゃいちっちゃい。

デッサンやクロッキーは写真発明以前、以降と違う。一般的には以前の作風を指すことが多い。写真がないから記録の要素が強くある。だから部分を克明に描いたりする。あれがスタイルと勘違いされる。以降は表現として主張するデッサンになる。構図も大胆に変わる。表現も幅が出来た。伴奏のない歌のようなもので、人間の息吹がそのまま出る。何枚描いてきたか忘れたが、直接今を表現するにはクロッキーが有効な手段だ。

写真をそのまま写す絵画が多すぎる。それって写真でいいだろ?ってのがおおい。スーパーリアリズム以降こんな風だ。写真は現実そのものと思われがちだが、あれは平面と数学的な明暗の諧調に置き換えられている。そのまま写せばさらに平板になるのは当然。しかしダビンチの作品は写真を越えている。写真のない時代に作ったのに。あるいは作ったから。顔料ももちろん違う。既製品のチューブじゃない。

彼は世界をとらえようとした。科学的に感覚的に。人間の皮膚や骨格の構造も熟知し、空気という存在すらとらえ空気遠近法も確立した。モナリザの微笑ばかり感心がゆくようだけど、あの絵では風景と人物が等価に扱われている。その思考や感覚が絹の布のような絵の具の置き方に現れている。あの独特の質感。距離。全体に気品を含んで漂う死の匂い。 知りたい、知りたい。この世のすべてが知りたい。世界はこんな風に出来ている。彼の常軌を逸した探究心の成果が絵画と言う場所だった。

だからこれからもただの絵描きには追いつけない。そしてテクノロジーが進めば進むほど、輝きを増してゆくだろう。そしてそれが絵の本質だ。