きょういく

2005 9月4日

このまえ「積み木崩し」のその後のドラマを放映していた。

オヤジを思い出した。彼は教育者としては校長にまでなったが、 家庭では父親としても夫としても失格だったろう。単純な人間性だけで教育はできないのをまざまざと見せつけられた。不良とか優良とか簡単に子供を判定するけれど、そのジャッジ自体に首を傾げたし、教育者の導く回答は門切り方で絵空事のようなリアリティのないものだった。判で押したような抽象的な答えは学習指導要領の教育の成果だったのか。

当時の「積み木」のドラマで感じたが 、反抗する人間はなにか悪魔かなんかつきものに憑かれてしまったか、頭の病気、といった視点でしか見ていないような気がした。「時計仕掛けのオレンジ」。反社会的人間は単なる壊れた機械としか見ない。こころがあるのにね。

それでも父親のことが大好きだったのは単純な人間性が素敵だったからだ。友人も多く、人に愛された。面倒な教育者とかいう仕事に就かなかったほうがよかったのかもしれない。それとも世の中が教育とかいうものに余計な要望を強いてきたからか。

僕は友人のように接したし、オヤジもそうだった。

教育って?というものに対する答えはまだ見つかりそうにない。