偶然のひとり

2010 1月8日

前も書いたが、昔は家族とか一族とかのしがらみはうんざりだった。まあ距離が出来て年をくって、意味や価値を見直しているわけだ。

昔は正月と言えば、池上のじいさんのうちに親戚が集まった。遠く松山からも来て、同年代の子に会う楽しみもあったし、年寄りの話や説教にうんざりもしていた。今思えばそれも貴重になった。一族の長のような人がいなくなったからだ。集まる機会と言えば葬式くらいになった。

最近では嫁さんが旦那の実家に一緒に帰らない家が多い。それも一人や二人じゃない。旦那の親とそりが合わないのが理由らしいが、そんなもん合うわけない。親戚の集まりに出ていた意義は後になってわかった。出ない問題も後になってわかるだろう。わかりやすいとこでは、まず間違いなく子供が真似をする。説教する気はさらさらないが、いい傾向じゃない。

自分は大きなものの一つ。個人とか個性とか、一人で吠えても何の意味もない。坂本竜馬だろうが、ジョンレノンだろうが、キリストだろうが、ブルース・リーだろうが、なんだろうが同じ。空から降って沸いたわけじゃない。天才も有名人も、しょせん他人や歴史が作るものだ。

一回自分が一人で出来てないことを見直すこともいいだろ。俺もおっさんだし、ちょうどいい機会。縦と言う歴史の軸があって、家族や親戚や友人、知人と言う横の軸がある。たまたまその偶然の集合体の名前が千光士 誠ということらしい。そういうことなら、縦の軸のディティールをはっきりさせると、千光士誠という奴もなにかがはっきりしたり、意外なところが見つかるかもしれない。

まあそんな感じだ。