公の仕事

2011 9月25日

先日あるボーカリストさんにこう聞かれた。個人的な辛いことやなにやらが作品を生む原動力になりませんか、と。

ない、と言った。でもそれは少し違うかな。今は違う、だと思う。若い頃はそういった熱情で奮起することは多い。自分もご多分漏れずそうだった。しかしそれでは長続きしない。続けるにはただの個人的目的から大きなものに、転換点みたいなものがあるように思う。

最近の活動を公の行為と思い始めた。芸術家というのは個人的なものではなく、公の存在じゃないか。自分は媒介に過ぎない。自分の個人的体験も多くの人の個人的体験と繋がらないと作品にはならない。自分はどこにあるかというと、歌い手なら声、絵描きなら筆の軌跡になる。それが誰でもない自分だけのもの。わざわざ個性だと歌い上げる必要もない。これは今の年齢だから出来る仕事だ。若すぎても老け過ぎてもいけない。それに仕事としても中身がある。誰でもそうであるように、一人の人間として内容のある仕事がしたいじゃないか。

こうちゃんを描いて、取材して改めて思った。今本当に圧力のある人間に対峙していると。そして立派な男だなと思った。かつての番長だった頃からさらに人生の厚みを重ねて、彼の言葉は本当に胸に来た。自分を顧みて恥ずかしいと思った。自分はわがままに勝手を通して生きて来た。だから彼に対して、決して恥ずかしくない仕事がしたいと思っている。

人と人とのやりとり。そんなかすかな結晶を形にすることで自分は生かされている。