基地の話 3

2010 6月9日

それは基地の住居に特化した跡だった。広大な面積を鉄条網でふさいである。線路からはコンクリで固めてみえないようにしてあった。そこを俺たちは鉄条網をプチプチ破って進入していた。中はアメリカの街が丸ごと残っていた。広い邸宅に大きな道路、大きな木々。映画で見たかのような世界が朽ちた状態でそのまま。人も誰もいない真昼のアメリカの街が日本にある、そんな経験はめったにできない。言葉にできない静寂がそこにはあった。しかしここには監視する人間がいた。彼らは突然車でやってきて俺たちを捕まえた。関東財務局というところが管理していたと思う。それでも目を盗んで俺たちは忍び込んだ。野犬にも追われたりしながら。おとなのかくれんぼのような気持ちもあったし、世間から行き場がないものが逃れるには最高の場所でもあった。俺たちは必死に、そして大笑いしながら逃げた。あの空気は今でも忘れがたい。家の中は昨日まで住んでいたかのようだった。なかにはおかしな家がいくつもあった。中を全部青く塗った部屋。誰かがアトリエに使ったんだろうか。二人で死体を見たこともある。雨風に朽ちた死体。凍りついた状況を今でも覚えている。いや、それは死体じゃなかった。そっくりの人形だった。しかしそんな人形がなぜあんなとこにあったかは知らない。大きなボイラーの工場のようなものもなにもかも廃墟はとにかくダイナミックだった。ビルの屋上に行って今も自衛隊の飛行場がある方向を眺めた。夕日が滑走路の向こうの基地跡に落ちてゆく。その光景はとても日本とは思えなかった。それにしても思うのは、駅からあんないい場所に広大な面積の基地があるということだ。関東だけでも福生、厚木、横須賀などまだまだある。今でも都内には8つの基地、味の素スタジアム370個分の面積を占有しているという。それが首都にある。ふざけた話だ。

佐々木はその圧倒的技術とパワーで作品をものにした。あいつは四年間、助手時代を含むと六年間基地の撮影に捧げたようなものだ。不法侵入を繰り返し、撮り続けた作品はニコンサロンの華々しいデビューと日本カメラの特集もあったすばらしいものだった。一枚の作品が縦3メートル横2メートル以上もあった。

その後あいつは失踪して撮ることを辞めたが、基地とあの作品のことは今でも忘れない。