3高野山

2007 11月16日

夜から朝にかけてずいぶん充実した時間を過ごせた。朝はそれぞれすれ違って、名前を告げることなく別れた。良い旅を。電通マンに言わせると、もともと旅人は大門という門から入るものだという。彼は二十キロ先のふもとから歩いて来たらしい。それは無理としてもそこからスタートするのは良い案だと思った。そうするとここは大門から奥の院までまっすぐな直線上におさまる。正直この地は俗界から切り離された修行の場だと思う。見せる観光地ではない。だから宿坊とか瞑想とか体験するのがふさわしい。だから今のような大衆化は少し疑問だ。それでも垣間見えるものはあった。海外でよくあるのがどこの宗教だと聞かれること。彼らはなにかの宗派に属するのが当たり前なのだ。合理主義のアメリカも根幹にキリスト教がでんとある。日本人は合理主義は入れたが仏教や神道は見て見ぬ振りでキリスト教はなじめないという宙ぶらりんの状態が続いている。やはり何千年続いているものはなめたもんじゃない、というのが実感だ。いずれアジア的な宗教に戻る気がする。心の平穏というのが実感出来た体験でもあった。そして普段無駄なもんだらけに囲まれているのが分かった。大事なものなんぞほとんどない。余計なものばかりが頭をよぎる。今年はソウルでエネルギッシュなカオスにうたれ、高野山で静かな凛とした静けさにうたれた。どちらも今の都市生活にないものだ。日本的なものは海外に行くのと同じように今の生活から遠いものだ。そして発見するものも多い。